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1995年10月22日付『沖縄タイムズ』−「社説」=沖縄の怒りどう届くか

心を一つに最大の結集

8万を超える大衆というのは大変な数である。米兵の少女暴行事件を契機として、基地をめぐり沖縄の要求を世界に発信しようと、昨日宜野湾市の海浜公園で開かれた県民総決起大会会場を埋め、コンベンションホール周辺まで人々があふれた。大会が終わりに近づき、決議が採択されて、最後の桃原宜野湾市長があいさつをするころにも、後から後から人がやってきた。参加者は各界各層に及んだ。老若男女、経営者も、労組員も、政党のすべて、基地全面撤去・日米地位協定と安保条約破棄を主張する人も、安保体制を認め、基地の整理縮小にとどめて要求する人も一つになった。 1956年の「島ぐるみ闘争」と呼ばれた「土地を守る4原則貫徹」の大衆行動以来、今回のように県民が一体となって、この沖縄の将来についてともに意思表示をしたことはなかった。基本的には等しく「平和で豊かな沖縄」を目指しながら、40年近く人々の利害が対立し、イデオロギーで反目し、常に争ってきた。 米施政権下でも、復帰が視野に入ってからも、復帰後も変わらなかった。 今、立場を超えて結集できたのはなぜか。
 大会は「抗議決議」を採択した。まず、米軍人による少女暴行事件に対し、満身の怒りを表明し、関係者の深い悲しみと強い怒りを共有するために結集したと、最初にうたった。  要求としては「米軍人の綱紀粛正と軍人軍属の犯罪根絶」「被害者への謝罪と完全補償」「日米地位協定の早期見直し」「基地の整理縮小促進」を表明した。県民の最大公約数的な内容である。決議文には、日米両政府に対する激しい怒りが込められた。特に事件が起こってからの日本政府のなすすべを知らない姿を「軟弱外交ぶり」となじっている。
 大田知事は大会あいさつで、「沖縄は50年間、基地政策に協力することを余儀なくされてきた。今年は戦後50年、この形を変えていかなくてはならない。今度は日米両政府が沖縄に協力することを考えてほしいと言ってきた」と述べ、未契約土地強制使用の代理署名拒否を説明した。
 県民は、経済的な理由などで基地の重圧を我慢してきた人も、我慢せずに基地撤去を言い続け、行動し続けた人も「もういいではないか。これ以上はたくさんだ」ということで一致した。 また、米軍要員による犯罪をめぐり、起訴とともに容疑者引き渡しという現項目すら、日米協定の改定でなく運用面の改善程度しか推進できない両政府に不信を抱くことで一致した。 まずそのことを日米政府も、両国国民も、米軍当局も知ってほしい。

県民一致を促進したもの

 大会決議に挙げられたのは、ゆるやかな要求である。ここに参集できなかった人々を含め、県民のそれぞれにはもっと強い要求もある。 いたいけな少女に対する人間の尊厳を踏みにじる犯罪に怒りの声を上げ、具体的に有効な抗議行動を展開したのは女性だった。 歴史をさかのぼれば、沖縄戦後史の始まりは病気や飢えとともに、米軍人による性暴力被害とその恐怖との闘いだった。戦争中から引き続き、さらに被占領史の中でも繰り返された。 日本の近隣諸国への侵略、占領にもついて回った。さらにいま、戦争のあるところに必ず起こっていることが明らかにされている。 女性たちの平和と人権保障の立場からすると、綱紀粛正などなまぬるい。基地撤去の主張になる。 基地に対する県民世論がここまで拡大したのは、女性たちが長年の憤まんの爆発に火を付けたからだった。 また、基地に土地を提供することを余儀なくされ、軍用地料などが生活の基盤になっている人々の間に、復帰後契約を拒否する運動が起こり、直接の当事者が基地撤去のともしびを絶やさずにきたことも忘れてはならないだろう。 苦しい闘いの途次、多くが脱落せざるを得なくなったにしても、現実対応で基地の重圧を我慢することに、絶えず警告を発してきた。現在の少数派はいつか多数派になることは、世界の歴史が証明している。

自立の道を探る第1歩

 沖縄は、永遠に軍事基地としての有用性でしか地域の価値を認められないのか。戦争で一方的に基地化され、その重要性によってのみ、沖縄の地位が左右されてきた。自分の意思とはかかわりなく運命を決められる歴史を続けなくてはならないのか。県民総決起大会にこんなにも人々が結集した背景を深く掘れば、そんな思いと、自立を求める心がある。日本復帰は初めてと言っていい自らの選択ではあったが、根本のところで事態は変わらなかった。集約すれば基地縮小や地位協定見直しになるにしても、県民の怒りの底は深い。政府にどう届くか見極めたい。